The tradition & historical record
1 min read · 2 sources加悦谷祭(かやだにまつり)は、京都府与謝郡与謝野町の旧加悦町および野田川町をさして加悦谷と称する地域一帯の神社の例祭で、毎年4月最終週の土日に各々の地区で開催される。与謝野町最大規模の春の例祭である。かつては神社ごとに異なる日に行われていた祭礼を、1887年(明治20年)頃から加悦天満宮の例祭日に日程をあわせて行うようになった。 「カマド清め」と称される神楽の渡御を中心とし、太刀振り(たちふり)、子ども屋台とも称される太鼓屋台や芸屋台など、各地区で特色の異なる芸能が各々の区内を巡行する。 2019年(平成31年)時点で加悦谷祭を構成する16地区38神社の例祭のうち、旧加悦町後野地区の愛宕神社の屋台行事は、府登録無形民俗文化財となっている。 1
地理
加悦谷(かやだに)は、四方を山地に囲まれた二級河川・野田川の扇状地一帯の地域を示す地名で、行政区域では京都府与謝郡与謝野町の旧加悦町と野田川町を示す。丹後半島の付け根の内陸部にあたり、北部で東西に広がる五角形のような地域の中央を、周辺の江笠山、赤石岳、千丈ヶ岳などから水を集める野田川が流れる。加悦谷の最上流部である与謝地区から、ほぼ中央部の加悦地区までの約4キロメートルは、標高80メートルから10メートルまで北に向かって下る幅500メートル前後の傾斜地であり、残る北半分は幅1 - 1.5キロメートルの平坦な盆地状の地形となっている。また、支流の奥山川、香河川、岩屋川の流域には小さな扇状地性の低地もみられる。 日本の山陰型気候区の東部にあたり、冬に雨量が多く、豪雪地帯に含まれるが、沿岸部に比べるとごくわずかにではあるが気温が低く、降水量は少なめである。しかし裏日本的な気候に変わりなく、年間を通して曇天が多く、春の3月 - 5月以外は湿度が80パーセントを超える。この湿度の高さが、乾燥に弱い絹織物には最適な条件であり、古くから農耕と機業の兼業で生計を支えた。なかでも、1722年(享保7年)に後野村の商人・木綿屋六右衛門の手引きにより、加悦村の手米屋小右衛門、三河内村の山本屋佐兵衛が京からお召ちりめんの技術を習得し、丹後ちりめんを創織したことが加悦谷地域の発展におおきな影響を及ぼし、ほぼ同時期にちりめん創織に成功した峰山とならぶ丹後ちりめんの一大産地として、江戸中期から昭和中期にかけて繁栄した。 1
歴史
加悦谷祭は、五穀豊穣を願う春の例祭である。発祥は明らかではないが、各地区の文献に残る複数の記録から、江戸時代中期の天明(1782年 - 1788年)から寛政(1789年 - 1801年)年間にかけて、丹後ちりめんを通じて人の往来があった京都の祇園祭などから都市的な曳山行事が流入し、18世紀後半のちりめん好況により町が成熟した証として発展したと考えられている。祇園祭を模した華麗な2階造りの芸舞台をもつ屋台は、加悦と後野に4台、算所に2台、明石と金屋に1台ある。 かつては集落ごと、または神社ごとに春や秋に行われていた各々の祭礼を、1887年(明治20年)頃に加悦の天満神社の天神祭の例祭にあわせて4月25日に統一し、前後を含む3日間としたのが、現在の加悦谷祭の原型である。おもな祭礼行事は24,25日の2日間で行われ、この日は地区内の事業所や小中学校が休業し、一家総出で祭礼を担った。例祭日の統一は、各村でばらばらに祭礼を執り行うのはお互いに親戚知人を呼び合うので費用もかさむことから、同日に行い、互いに経費節減を図ることを申し合わせた結果であるという。 ちりめんの好況を反映した祭礼行列は壮麗なもので、1933年(昭和8年)に当地を訪れた歌人・吉井勇(当時47歳)は、「縮緬の 祭見に来と 書きおこす 丹後だよりも 待たれぬるかな」と詠み残している。 就労環境の変化に伴う担い手不足を解消するため、2001年(平成13年)以降は、4月最終の土曜日曜に行われている。前日の土曜日を「宵宮」、例祭当日を「本宮」あるいは「本祭り」と称するが、地区により土曜日のみ、あるいは、日曜日のみを祭日とする地区もある。 祭礼行事の多くは、現在も1889年(明治22年)の町村合併以前の旧村(地区)単位で執り行われている。 1