The tradition & historical record
1 min read · 2 sources藤織り(ふじおり)は、山に自生する藤蔓の皮を剥いで糸とし、それを織りあげる紡織技術。またはその製品である藤布(ふじふ)のことをいう。 古代から庶民の衣料として、北海道と沖縄を除くほぼ全国の山村で織られた自然布(古代布)であるが、麻や木綿の普及にともなって姿を消した。これらの栽培に適さなかった山間部や、繊維が強く塩や水にも耐えたことから需要の高かった沿岸部等では明治・大正期に入ってからも藤織りが行われていたが、生活様式の変化とともに減少し、昭和に入って途絶えたものと考えられていた。 1962年(昭和37年)、京都府宮津市下世屋地区で藤織りが行われていることが明らかとなったことから、全国的に古代布の調査が進み、現在は各地の保存会や伝承会によって技術の継承が図られている。2019年現在、産業として存続している各地の藤織りは、すべて世屋の藤織りがルーツとなっている。 1
特徴
藤織りの布は、木の繊維の硬質なさわり心地を残し、麻とよく似ているが麻よりも柔らかい。繊維は麻よりも太めで、それを手で裂いて糸に撚るため細い糸を紡ぐことは難しい。繊維が太いのは、繊維が網目状に交差しているためで、細い糸を紡ぐことができる綿糸の工業糸に比べて布に織ったときに透き間が多くなる。そのため保温性に欠けるが、通気性は良く、夏の衣料に適している。 糸が太く織りあげた布の密度が低いということは、摩耗に強いということでもある。藤糸には水に濡れるとさらに強くなる性質があり、経年劣化することもほとんどないため、年間を通して着用しても10年は着られるほど丈夫であった。「棘が刺さっても棘のほうが折れた」と言われ、山仕事や炭焼きなどで着用された仕事着のほか、普段着にも広く用いられた。木綿の衣服が普及した近代では、木綿地の衣料の前面に藤布を縫い付けて用いるなど、防護布としての役割を期待された使用例も残されている。フジの繊維が長く強いことは古代から知られており、物を縛る紐や荷物を曳く綱などにも利用された。 藤布は、古代布では大麻布(アサ布)、苧麻布(カラムシ布)に次いで広範囲で用いられ、多くは染色することなく生成りのまま用いられた。衣類の他にも、醤油の搾り布、蒸し器の敷布、豆腐の漉し布、米などの穀物袋、畳の縁(へり)、漁網など、暮らしの様々な場面で用いられている。 1
歴史
植物の繊維を編んで活用する生活様式は、縄文時代に誕生し、織物すなわち機織りの技術は、弥生時代に稲作とともに朝鮮半島等を経由して伝わり、全国に伝播したと考えられている。3世紀前半の日本を紹介した『魏志倭人伝』によれば、当時の日本人は貫頭衣と呼ばれる袋に首と手足を出す穴だけを開けた衣服を身に着けていたとされ、3世紀には布が織られていたことがうかがわれる。 古代の日本では衣料とされた布には、野生の植物から、とくに繊維を細長く績(う)むことができるものが用いられた。衣料とされたおもな繊維素材の発生時期は、大麻が縄文時代草創期、アカソが縄文時代前期、苧麻が縄文時代後期、藤と絹は弥生時代前期、楮あるいは穀が弥生時代後期、葛が古墳時代前期と思われる。遺跡からはこれらの繊維も見つかっており、弥生時代前期の遺跡である福岡県小郡市横隈北田遺跡から出土した壷の内側に付着していた布は、藤布の可能性が高い。 1
江戸時代中期に木綿が伝播するまで、庶民の衣料の中心はアサ(麻)で、麻以前にはフジ(藤)やクズ(葛)など山野に自生する草木から採集できる植物繊維が利用された。なお、庶民といっても都会に住んでいる者と農村部に住んでいる者の衣料はかなり違い、とくに農村部においては麻布や木綿、絹のように材料から生産して作る織物は、売って別の品に替えるか献上品として用いられ、自分たちの消費する衣料や生活用品には、自然からふんだんに得られるこれらの植物を用いた自給自足の生活が近代まで営まれた。藤織りの原料であるフジは、高い木に巻き付く蔓を引きずり下ろし、あるいは木に登って採集せねばならず、古代布のなかでもとりわけ手間と労力を要するため、やがて農村部でも麻にとって替わられるが、耕地面積の少ない山間部や沿岸部の一部では近年まで残った 1
『古事記』の「応仁記」では、春山之霞壮夫(ハルヤマノカスミオトコ)の母が、藤蔓から衣・袴・襪・沓を一夜で製織して与えた記述があり、藤が古くから衣類の材料として認識されていたことを知ることができる。 『万葉集』では、大網公人主が宴で吟じた「須磨の海人の塩焼ぎぬの藤衣 間遠にしあれば いまだ着なれず」(作者不詳、巻3-413)、あるいは「大君の 塩焼く海人の 藤衣 なれはすれども いやめづらしも」(作者不詳、巻12-2971)などと詠まれたように、仕事着として重宝されていたことがうかがわれる。 江戸時代中頃の1732年(享保17年)に刊行された『和漢三才図絵』(巻第27)には、奥州(福島県)の相馬地方で藤織りが行われ、袴などにして着用されていたことが記されている。 同じく江戸時代中頃に伊勢貞丈が著した「安斎随筆」では、紫藤から作る衣類について樵などが着用すると紹介しており、近世にも仕事着として着用されていたことがうかがえる。 鎌倉時代の文献『遠州国調誌』には、「女はふじと申を取、こぎ又は太布の織、浜方商人に売申し」と記されており、この時代には藤織りは自家消費だけでなく、商品として販売されていた地方があることを知ることができる。 一方で、藤織りはじょうぶではあるが粗末なもので、貧しい者の衣類とされていた。『万葉集』巻17の3967の歌の詞書に「…俗語伝、以藤続錦…」と、大伴池主が自分の歌文を藤布に、目上の大伴家持の歌文を錦に喩えた一文からも、身分の低い者の着る粗末な衣服として藤布が認識されていたことがわかる。そのため平安時代には喪服として藤布の衣服を着用し、これを「藤衣(フジゴロモ)」と称したため、いつしか麻など別の素材で織られた喪服もフジゴロモと称されるようになった。『越後野志』には、「古へ麻布ヲ薄墨染ニシテ喪服トセシヲモ藤衣ト云」と記されている。 平安時代の文学には、このような喪服としての藤衣が度々登場する。 1
『古今和歌集』巻第十六に収められた喪中の歌「藤衣はつるる糸はわび人の涙の玉の緒とぞなりける」(哀傷歌841、作者・壬生忠岑) 『源氏物語』「夕霧」に収められた「藤衣露けき秋の山人は鹿のなく音に音をぞそへつる」 植物学者・牧野富太郎は、「藤」という漢字はたんに植物の蔓を意味するものであり、種としてのフジを限定するものではないと述べている。 1
材料
山に自生する藤蔓を主な材料とする。 藤は日本固有種で、本州・四国・九州に分布するフジ(ノダフジ)と、本州の近畿地方以西・四国・九州に分布するヤマフジ(ノフジ)の2種類があり、地域により採取できたものを用いたが、一般的には上から見て蔓が右巻きに木に巻き付いていくノダフジが良いとされた(時計回り)。なお、ノダフジの変種にシロバナフジ、アカバナフジ、ヤエフジ(八重咲のフジ)があるが、花色に言及している文献ではすべて「藤織りには紫の花の咲くフジがよい」と記録している。 採取の適期は、フジが水分を多く含んでいる春から夏である。水分を含んでいるフジはその場で皮を剥ぐことができ、効率が良かった。秋のフジは乾燥して硬くなっており、水に浸けて柔らかくしてからでなければ皮を剥ぐことができず、余計に手間がかかった。被服材料として最適なのは成長期の7~8月とされている。最も良い繊維が採れる藤蔓は、樹齢5~10年、木に巻き付かずに地面から真っ直ぐに伸びたもので、捻じれて成長した藤蔓は、繊維も全体的に捻じれており長い繊維が採れないため不向きである。直径は親指大の2~3センチメートルの藤蔓が最適で、太く育ちすぎて表面が網状になったものは繊維層が粗く硬くなっているので、糸質が劣った。見た目で判断できるところでは、表皮が赤みを帯び、表皮の横方向に象の鼻にあるシワのような筋が入っているものがよい蔓であるという。葛布を織るときの材料は地面を這う匍匐枝でなければいけないが、藤布では匍匐枝よりも空中の蔓がよいとされた。 繊維素材としては、藤蔓の中皮のみを用いるのが一般的で、刈り取った藤蔓全体の約1割と、わずかであった。根元に近い部分が皮が厚いので繊維が多く採れるが、根本から刈る場合は新芽が伸びて数年後にまた採取できるように、地面から20~30センチメートルは残して刈らねばならない。また、花を多く付ける蔓は、養分を花に取られるため根元でも皮が薄くて藤織りには適しておらず、マフジ(花の咲かないフジ)を用いると伝わる地方も多い。このような花をつけない藤織りに適した蔓は、あまり枝分かれせずにまっすぐに伸びるもので、これを男蔓とも呼んだ。いっぽう、よく枝分かれして傘上に広がり花をつけるものは女蔓と呼び、種を絶やさないために残した。 なお、近代までの記録において葛布がしばしば藤布と称されているように、「ふじ」というのは元々クズ類の総称で、必ずしもフジ属のみをさすものではない。そのため、本記事の事例のうち、「6.3このほかの記録」については、フジではなくクズ等他のつる性植物が使われたものが混在している可能性も含まれる。 1
製糸
材料であるフジ蔓の採集の最適期は、フジの成長期である7~8月とされるが、春3~4月に採集する地域が多い。この時期はまだ樹木が芽吹いておらず、藪の中でも見つけやすく、花の咲く前の方が皮が剥がしやすいためと考えられている。繊維の採取には灰汁を用いることは各地共通しており、繊維を柔らかくするにあたって米ぬかを用いることも多くの地域で共通している。 1
製織
平織 ……反物にされる、いわゆる藤布は、多くが平織である。代表的な産地に、京都府宮津市の上世屋地区(丹後の藤織り)がある。 もじ織 ……明治時代中頃まで、漁網としてさかんに製織された。代表的な産地に、鳥取県及び島根県(出雲の藤布習俗)がある。なお、佐賀県では秋月藩の士族授産で盛んに製織された。 1
(-は他と比較しての工程の省略、または記録の欠如である。以下の写真記録は、「丹後の藤織り」の作業工程である。) 1
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