The tradition & historical record
1 min read · 2 sources日野祭(ひのまつり)は、滋賀県蒲生郡日野町に鎮座する馬見岡綿向神社の春の例祭。 馬見岡綿向神社は、日野町民には「大宮さん」と呼ばれて親しまれており、その例祭である日野祭は850年以上の歴史を持つともいわれる日野で最大規模の祭礼行事である。8つの大字にまたがる広域で、毎年5月2日(宵祭)、3日(本祭)、4日(後宴祭)の3日間で執行される。 1985年(昭和60年)3月29日、「日野曳山祭」の名称で滋賀県無形民俗文化財に指定された。 1
特徴
複数の行政区(村)にまたがる氏子集団によって行われる「郷祭り」で、滋賀県湖東地方での典型的な事例とされる。氏神と御旅所を神輿や神子と呼ばれる稚児行列が渡御する「神幸祭り」と、滋賀県下最多の保有数である16基の山車(曳山)が巡行する「曳山祭り」が併合されている点に特徴がある。 1
桟敷窓
渡御行列や曳山巡行の道筋にある民家の壁には開閉式の窓があり、ふだんは閉じられているが、日野祭の際にはこれを開き、庭に桟敷を組んで敷地の中から日野祭を鑑賞するためだけに設けられたもので、「桟敷窓」とよばれる。 桟敷窓のある家は、2002年(平成14年)時点で巡行路の北側16軒、南側18軒の計34軒確認された。桟敷窓はふだんは閉じられているが、日野祭の際には開き、その開口部に緋毛氈や御簾をかけて窓とし、庭に桟敷を組んで屋内から直接塀の外の祭行列を見物できる宴席となる。桟敷席では、集まった親せき等と祭礼料理の鯛そうめんや鰤ヌタなどを肴に酒を嗜むなどする。この光景は、日本で唯一、日野にだけみられる特徴である。 1
歴史
850年以上の歴史を持つ日野で最も大規模な祭礼行事であるとされるが、社史に残る度々の火災で記録の多くは失われ、その起源は定かではない。応永31年(1424年)の比都佐神社文書に「わたむき御祭馬二疋」と記録されているのが、現存する文献に見える最古の記録とされる。それ以前の日野祭の様子を知ることはできないが、日野が蒲生氏の城下町として栄える時代には、日野祭の様子も具体的に知ることができる。 戦国時代には戦乱で祭が一時中断した時期があったが、弘治3年(1557年)、蒲生定秀が50歳の時に、前年に孫の鶴千代(氏郷)が生まれたのを祝すかのように3基の神輿が新調され、中断していた日野祭が再興された。 馬見岡綿向神社の絵馬堂では、文化9年(1812年)に日野在住の画家・谷田輔長によって描かれた祭礼渡御の様子を見ることができる。 蒲生定秀以後の時代で特に大きな変化を見せたのは、曳山の登場である。文献における曳山の初見は、享保2年(1717年)で、当時少なくとも7基の曳山があったことが記され、宝暦年間には12基となっていたことが確認されている。曳山のような大規模な祭礼行事の登場には財力が必要なため、日野の繁栄に大きな影響を与えた日野商人が全国に出店を構え始めた時期を考慮すると、日野祭の曳山の登場時期は遅くとも17世紀の中頃ではなかったかとする説もある。当初の曳山は簡素で、台車に飾り台が付いているようなものであったと考えられるが、後に重箱型と呼ばれる細長く背が高い現代の曳山の形に変化した。 1759年(宝暦6年)12月18日、日野は町の8割を焼失する大火に見舞われ、曳山も大部分が焼失し、日野祭は1762年(宝暦9年)まで中断した。しかし、1765年(明和2年)には「大宮祭礼を旧儀に復す」のふれがあり、町の8割を焼失しながらわずか9年で復興を遂げた日野商人の財力を物語る。1780年(天明2年)には宝暦年間には7基であった曳山がその後2基増えて9基になったことが記録されている。 明治期の初め、白銀町や下鍛冶町が所有していた曳山を他村へ売却したが、新造した町もあり、宝暦年間以降に増えたものとあわせて、曳山の数は16基となる。 太陽暦の導入で、従来例祭日とされてきた4月の中の亥日は、1879年(明治12年)から5月5日と確定し、その後、幾度か変更されるも、1902年(明治35年)に本祭日を5月3日と固定された。 1912年(明治45年)以降、日野に電燈や電話線が架設され、曳山では「ほいのぼり」の渡御巡行は行われないことになった。そのため、この年の祭では曳山16基、ほいのぼり30本(内、大幟4本)が渡御し、有終の美を飾った。その後も曳山16基は渡御に参加した。1915年(大正4年)の記録では「曳山車の渡御の列に加はることは中絶す」とありながら、神社に近い曳山は神社境内へ、御旅所に近い曳山は御旅所へ曳きだし、どちらも都合の悪い曳山は山庫前に曳きだすことで妥協された。 1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入した後も、1942年(昭和17年)、1943年(昭和18年)は簡素ながら日野祭は例年通りに行われ、1944年(昭和19年)、1945年(昭和20年)は神主と氏子総代のみが参列して神事を行うのみとなった。 1945年(昭和20年)の終戦を境に、祭礼は盛大に復活したが、渡御還行が夜間に及ぶことは物資不足のために廃止され、1~2年の間はやや縮小した。 祭礼次第は明治期末期からほとんど変化しておらず、曳山の数も明治初年以降16基が現代まで受け継がれている。1985年(昭和60年)3月29日、「日野曳山祭」の名称で滋賀県無形民俗文化財に指定され、1988年(昭和63年)には祭と曳山の永続的な継承をめざして、日野曳山保存会が設立された。 1
1880年(明治13年)5月5日の日野祭の様子(滋賀県大書記官と八幡郡長が見学にきた記念に撮影されたもの) 1
祭礼の範囲
日野祭に関係する氏子集団は8つの大字にまたがり、1975年(昭和50年)時点の行政区では19の町にあたり、祭に直接関係する町の人口割合は33.85パーセントだった。氏子の最東端にある西大路と、最西端の上野田は直線距離にして4,730メートル離れており、祭は広域行事である。 住民の日野祭への関心はひじょうに篤く、馬見岡綿向神社から御旅所までの渡御巡行の道筋、約4キロメートルの電柱はすべて個人の屋敷の敷地内に建ち、道路上には1本もない。 また、民家の塀には、日野祭の巡行を屋内から鑑賞するためだけに設けられた開口部「桟敷窓」があり、これは日本全国で唯一、日野町にだけ存在する建築様式であるという。(「桟敷窓」については特徴節で詳説。) 1
宵宮祭
5月2日午後、日野祭の宵宮祭として西之宮神社の例祭が執行される。夕刻から各町内の曳山が倉の前やおもな辻まで曳き出され、提灯に灯をともして夜半まで祭囃子を奏で、祭の雰囲気をつくる。なかでも大窪の「札の辻」では、複数の曳山が集まるため一際にぎやかな風情となる。 1
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Hino Matsuri is festival in Hino, Shiga, Japan, according to the structured record cited below. This entry was generated automatically from that record and has not yet been reviewed by a person familiar with the tradition. 2