The tradition & historical record
1 min read · 2 sources甲府道祖神祭礼(こうふどうそじんさいれい)は、江戸時代の都市祭礼。江戸後期に甲斐国の甲府城下町で行われた小正月の道祖神祭礼で、城下の大通りを浮世絵が描かれた幕絵で飾る点を特色とする。別称に甲府道祖神祭り。 1
甲府城下町の成立と道祖神祭礼
甲府は戦国期に甲斐守護武田氏の本拠である城下町として発展し、武田氏の滅亡後も甲府は甲斐統治の政治的拠点として機能した。近世初頭には戦国期の武田城下町南端にあたる一条小山に甲府城が築城され、甲府城下町は南方に遷移し城下町が再形成された。近世甲府城下町は甲州街道が東西に通過するほか諸街道が結集する甲府柳町宿が成立し、年貢米も集積される経済都市としても機能し、江戸中後期には亀屋座などの芝居小屋も出現し町人文化が興隆した。 甲府城下を中心とする国中地方は当初甲府藩が設置され大名支配が行われていたが、享保9年(1724年)には甲斐一国が幕府直轄領となり、甲府城下には甲府勤番が設置され町方支配が行われ、甲府町政は甲府町年寄によって担われていた。 道祖神祭礼は農作物の豊穣を祈念する民間信仰で、甲府町方のみならず甲斐国一円で行われ、今日でも小正月行事として様々なツクリモノが作られる民俗行事が行われている。道祖神祭礼は近世期には全県的に記録が残り、民俗的意義のみならず共同体としての庶民の娯楽であった点や、景気浮揚効果も意図して実行されていた点が注目されている。 1
甲府道祖神祭礼の開始と広重の来甲
甲府城下における道祖神祭礼の存在は17世紀段階から確認され、道祖神祭礼そのものの起源は古くに遡る可能性が考えられている。 甲府道祖神祭礼に関する記録は宝暦2年(1752年)成立の『裏見寒話』をはじめ、文化13年(1816年)の『日本九峰修行日記』、天保12年(1841年)の歌川広重『甲州日記』、嘉永3年(1850年)成立の『甲斐廼手振』、慶安2年(1866年)成立の『甲州道中記』などに見られる。 1
いずれも甲府道祖神祭礼の華美な実態を伝えており、『日本九峰修行日記』1月15日条に拠れば注連飾りが巡らされた城下各地では狂言が演じられ、巨大迷路や人々が女装して庭園の植木や置石に仮装して名所風景を再現するなど、様々な趣向が凝らされていたという。また、『甲州道中記』では大通りのオヤマ(飾り物)や幕絵の様子が記され、当日は子供が道行く旅人から賽銭をねだっていたという。 甲府道祖神祭礼は幕絵で大通りを飾る習慣を特異とし、これは全国的にも類例が見られない。天保12年(1841年)の歌川広重『甲州日記』において初めて確認され、広重は甲府道祖神祭礼の幕絵製作のために甲府町人に招かれて来甲し、幕絵で大通りを飾る形態の道祖神祭礼は翌天保13年正月からであると考えられている。 『甲州日記』に拠れば広重は天保12年4月2日に江戸を出立し4月5日に甲府へ到着しており、日記に記される4月23日までは緑町一丁目(甲府市若松町)の伊勢屋栄八宅に滞在している。日記後半部分では同年11月13日から20日まで甲府に滞在しており、20日は甲府を出立し江戸へ帰還している。広重は甲府町人から歓待され幕絵製作のほかいくつかの作品を残しており、『甲州日記』には甲斐名所のスケッチも記されていることから、各地を遊歴したと考えられている。また、『甲州日記』においては亀屋座での芝居見物や料理屋での接待など遊興を行っている点も甲府城下の活況を示す記述として注目されている。 1
現存する幕絵
甲府道祖神祭礼幕絵の現物は明治初年の通達の影響で大半が廃棄されたため散逸しており、現在では山梨県立博物館収蔵の初代広重筆の「東都名所 目黒不動之瀧」、二代広重筆の「東都名所 洲崎汐干狩」、個人所蔵の月岡芳年「太閤記 佐久間盛政羽柴秀吉を狙う」3点が現存している。ほか、伝存している幕絵として歌川国虎「和漢名将伝 本武尊」「足利尊氏」の2点が知られるが、現在は所在不明となっている。 1
初代広重「東都名所 目黒不動之瀧」・二代広重「東都名所 洲崎汐干狩」
山梨県博収蔵の2点はいずれも麻布製で高さ約1.6メートル、横幅10メートル、麻布五反を横方向に継いだ画面に広重が得意とする江戸名所の黒不動境内が俯瞰構図で描かれている。画面上下と四隅のすやり霞部分を藍染めされた上に墨で下書きされ、岩絵具で彩色が施されている。右端には画題、左端には広重の署名と書き印があり、いずれも緑町一丁目の大通り(現在の遊亀通り)に飾られていた幕絵で、本来は東都名所の幕絵が10点以上製作されていたと想定されている。 初代広重の「目黒不動」は東京都目黒区下目黒の瀧泉寺(りゅうせんじ)で、広重は生涯で目黒不動を六点ほど描いている。太田記念美術館所蔵の『江戸近郊図写生帖』『江戸名所写生帖』には初代広重による目黒不動のスケッチがあり、幕絵は喜鶴堂版の錦絵「東都名所 目黒不動詣」に似ていることが指摘され、広重はスケッチを作品に活かしていると考えられている。一方、二代広重の「洲崎汐干狩」は東京都江東区木場の洲崎神社と汐干狩(しおひがり)の情景を描いている。洲崎も初代広重が多く手がけた風景で、幕絵は同じ喜鶴堂版の「東都名所 洲崎しほ干狩」と似ていることが指摘される。 1
月岡芳年・歌川国虎
月岡芳年は「一魁斎芳年」の筆名で「太功記 佐久間盛政 羽柴秀吉を狙ふ」を制作している。慶応年間の作。福富太郎コレクション資料室所蔵。 豊臣秀吉(羽柴秀吉)の生涯を題材とした作品で、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいで、秀吉が柴田勝家の甥にあたる佐久間盛政と対峙する場面を描いている。寸法は縦195.0センチメートル、横900.0センチメートル。若尾謹之助『甲州年中行事』によれば、柳町四丁目に飾られたという。1930年(昭和5年)には内田實が『廣重』において記録している。幕絵は一時所在不明となり、1976年(昭和51年)に再発見される。 甲府の古老の聞き取り調査によれば、他に子守が嫌になった秀吉が逃げ出す様子を描いた図があったという。 月岡芳年(1839年(天保10年) - 1892年(明治25年))は江戸新橋に生まれ、歌川国芳に入門すると安政元年(1860年)頃から盛んに活動し、特に怪奇的な作品を多く手がけた。1872年(明治5年)頃には一時精神を病むが、明治後も『錦絵新聞』の挿絵などで活躍した。 芳年は慶応年間に道祖神幕絵制作を目的に甲斐を訪れているほか、明治期にも来訪している。山梨県内の作例として、南アルプス市の新津家に伝来する新津家伝来肖像画に含まれる新津家当主を描いた「新津清右衛門正光像」などの肉筆画がある。 1938年(昭和13年)・1953年(昭和28年)に開催された輔仁倶楽部主催「峡中浮世絵展覧会」では屏風絵や襖絵など、多くの芳年作品が出展されておりいる。この展覧会が開催された年代は、出展作品に象と見立文殊菩薩を描いた金屏風に干支の「辛未」が記されていることから1871年(明治4年)にあたり、芳年もこの年に山梨を訪れていたと考えられている。 1
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