The tradition & historical record
1 min read · 2 sources十津川の大踊(とつかわのおおおどり)とは、奈良県吉野郡十津川村に伝承されている民俗芸能の踊りである。 国の重要無形民俗文化財に指定され、ユネスコの無形文化遺産「風流踊」を構成する文化遺産の一つである。 1
概要
十津川村の盆踊りでは「大踊り」と呼ばれる踊りが村内各所で広く踊られていたが、なかでも小原、武蔵、及び西川地区(永井、重里など)の3地区には中世以来の歴史を持つ古典的な踊りが伝承されており「十津川の大踊」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。各地区の保存会が継承に努めており、毎年8月13日から8月15日まで地区ごとに日をずらして、房を付けたバチや太鼓、扇、切子灯籠など目にも鮮やかな踊りが踊られている。 僧侶の指導で始まったとされる大踊りは室町時代から流行した風流踊の典型例の一つとして芸能史上貴重なものである。この地域が秘境の山里であったことが、民俗学的価値の高い、民衆の祭事舞踊の原型ともいえる踊りを保存継承してきた。ゆったりとした独特のテンポ、優雅で古風な振り付けや歌詞など、現代の盆踊りとはまた違う趣がある。 これらの踊りは昔は寺の堂内で踊られていた。十津川村では明治の廃仏毀釈で全ての寺院が廃されたが、その名残はこのような伝統芸能に残っている。今では最後に大踊りで締めくくり行事も深夜には終わるが、かつてはそのまま夜が明けるまで踊り続けていたという。 1
文化財指定
1974年(昭和49年)12月4日 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として選択。 選択名称 「十津川の大踊」。 保護団体名は、小原踊保存会、武蔵踊保存会、西川大踊保存会。 1978年(昭和53年)3月28日 奈良県指定無形民俗文化財。 指定名称 「十津川の大踊り」。 保持団体は十津川村武蔵・小原・西川大踊保存会。 1989年(平成元年)3月20日 日本国の重要無形民俗文化財に指定。 指定名称 「十津川の大踊」。 保護団体名は、十津川村小原武蔵西川大踊保存会、小原踊保存会、武蔵踊保存会、西川踊保存会。 2022年(令和4年)11月30日 ユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に「風流踊」の一つとして記載される。 1
小原の大踊り
十津川村の中央部、村役場のある小原の盆踊りは、小原踊り保存会により8月13日の夜に十津川第一小学校の校庭で行われている。校庭に櫓を組み、中央に青竹を立て、ハッポウ(八方提灯)を吊り下げる。校庭で踊るようになる以前は踊り堂とよばれた寺(泉蔵院)の堂内で踊られていた。踊り堂の周囲には杉板で桟敷が設けられたという。 小原の踊りは「大踊り」「口説き」「馬鹿踊り」に大きく分けられる。大踊りは男踊りともよばれ男性中心の踊りであった。広義の大踊りに含む、世の中踊り・お花踊り・お宝踊りなどを本踊りとよぶが、これらの踊りは次第に歌われなくなり失われ、現在は狭義の大踊りのみが伝承されている。口説きは女性中心の踊りで、お杉口説き・つばくら口説き・中山口説き・お熊口説き・おいそ口説きなどがある。それら以外の踊りは馬鹿踊りといい、木曽節・串本節など民謡を元にした踊りなどがある。 大踊りは前列には男性が太鼓打ちと太鼓持ちに分かれ、その後ろに女性が扇を手に並ぶ。後列には切子灯籠を持つ者が加わる。最初はゆったりと踊られるが後半のセメに入ると、太鼓打ちは白・赤・緑の長い房の付いたバチを振り回しはねるように太鼓持ちの太鼓を打ち、女性はその周囲を取り巻いて扇を頭上に左右に振り、バチと同じ色鮮やかな長い房を付けた切子灯籠は櫓の周りを時計回りに走り回る。次第にテンポが速くなり踊りが高まっていく構成になっている。 この大踊りには農作業や山仕事また女装などの扮装をし、笠や帽子、手拭いで顔を隠して踊りに加わる道化者もいる。集落の人たちがあれは誰かと詮索するのだが、このように仮装で踊りに加わることを「化けて出る」と呼んでいる。昔は道化の人数も多くさまざまな仮装があったという。 1
武蔵の大踊り
小原の対岸にある武蔵の盆踊りは、8月14日の夜に現在は廃校となっている旧武蔵小学校(もと長盛山光明寺)の校庭に櫓を組んで行われる。こちらも元は寺の堂内で踊られていたが、参加者の増加に伴い1950年代頃から屋外で行うようになった。この堂は今も校庭の隅に残っており雨天のときに使われている。盆踊りは青年会が主催し、婦人会と武蔵踊保存会の協力で行われており、大踊りは武蔵踊保存会が中心となって踊る。武蔵踊保存会は村内ではいち早く1965年(昭和40年)1月に結成された。 踊りはお松口説き・お杉口説き・花づくし・笠くずし・笠踊り・おかげ踊りなど30余曲あるが、それらを踊ったあと大踊りが踊られる。現在伝承されている大踊りは1曲のみであるが、かつて踊られていた、十三四五・鎌倉踊り・御城踊りは本踊りといい、広義の大踊りに含む考え方もある。十三四五は胸に太鼓を吊り下げる形式のもので、近隣の同曲の中でも武蔵のそれは一番賑やかであったという。 大踊りは馬鹿踊りとは異なり男女に分かれて踊る。まず櫓の近くに太鼓と撥を持った男性が並び、その外側に扇を持った女性、その外側に灯籠のついた笹竹を持つ子どもたちが並ぶ。最初のモト歌は動きの少ない静かな踊りである。音頭取りが「ナムアミダブツ」を唱えると踊り手一同は櫓を囲んで輪になり、太鼓の男性たちが太鼓持ちと太鼓打ち二人一組となって輪の内側に入る。続くセメと呼ばれる部分になるとテンポが上がり、歌い方や踊り方が変わり動きが激しくなる。「弱い奴はまくり出せ」の掛け声の中で踊りの場は高揚し、踊りの輪の内側では太鼓打ちははねるようにして太鼓を打ち、女性たちは腰を屈め(小原、西川に比べ武蔵が最も前傾姿勢)扇を大きく翻し踊り、灯籠持ちは踊りの場を駆け巡り雰囲気を盛り上げる。昔は最後には灯籠を焼いたという。つまり盆の灯籠送りの作法を行っていた。また仮装した道化者が出る年もある。 馬鹿踊りの3時間に対し、大踊りの30分は曲、踊りともに変化に富み、始まるとまたたく間に終わるように思われる。かつての大踊りは1時間を超えるものであったが1970年(昭和45年)の大阪万博公演の際に時間制限が設けられ短縮し、以来地元で踊る場合も短くなったという。この万博時に猛特訓を行ったことで踊りも洗練され、以前は男性のみで歌っていたものが男女の掛け合いで歌う形になるなど万博公演は大踊りに変化を与えた。 少子高齢化による伝承の憂慮もあり、武蔵では村外の後継者育成にも力を入れている。北海道新十津川町への伝承普及活動も1979年(昭和54年)に始まった。翌1980年(昭和55年)には新十津川おどり保存会が組織され、1983年(昭和58年)に大踊りを伝承した。新十津川町の小学生が母村訪問研修で十津川村を訪れる際には武蔵に宿泊し盆踊りを伝授するなど交流を続けている。また奈良県下の小学生が武蔵に宿泊する機会には盆踊りの練習に参加してもらうなど、外部への伝承活動も積極的に行っている。さらには、30年以上武蔵の盆踊りに通い続けているという音楽学者中川真(大阪市立大学)が率いる一団が、2013年現在も毎年8月にやって来て準備、練習、盆踊りに参加しており、武蔵の盆踊りに欠かせない伝承者の一員となっている。 1
西川の大踊り
十津川村の南西部、十津川支流の西川筋の集落群を総称して西川地区という。西川の盆踊りは、8月15日に西川地区全体の催しとして重里の旧西川第一小学校の校庭で踊られている。以前は集落ごとに踊られていたが大正の頃より同川筋の永井の集落に集まり踊られるようになり、1967年(昭和42年)に永井、重里を中心に玉垣内、西中、小山手の人たちも加わり西川大踊保存会が結成され、以来毎年西川中学校(中学校は統合され、その場所が西川第一小学校になっていた)の校庭で踊られるようになった。永井では元は川原で、さらに1889年(明治22年)の十津川大水害で流される以前は道場と呼ぶ集会所で踊っていた。集落によっては民家の畳をあげて踊ることもあったという。 西川の踊りの特色は櫓を設けないこと、と多くの文献にあるように元々櫓はなかったが、2004年(平成16年)より櫓を設置している。ただし、並列の隊列で踊る演目が多く、また隊列を維持したまま移動する形式の演目もあるため、櫓は中央ではなく校舎に近い校庭の隅に設置して提灯を張り巡らせている。音頭取りは櫓上で歌うが、昔は歌える人が踊りながら音頭をとっていたという。 西川では馬鹿踊りを踊った後、大踊りの前に餅つき踊りも踊られる。餅臼を囲み伊勢音頭や餅つき唄を囃しに餅つきのしぐさを交えて踊られる。餅つき踊りの後には餅まきも行われいよいよ大踊りである。西川にはヨリコ・イリハ・カケイリの3曲の大踊りが伝わり踊られている。 ヨリコ(寄子)は踊りの場に人を寄せるための踊りといい、男性は白い短い房の付いたバチを持つ太鼓打ちと太鼓持ちに分かれ、後方に両手に扇を持つ女性が踊る。男女が3、4列に並び全体が移動するダイナミックな動きを見せる踊りである。歌詞はいくつかあるがその都度一つのものを歌い、歌い方、踊り方が三段階に変わる。昔は雨乞いにも踊られたといい「雨はしゅげしゅげ」の歌詞は雨乞いのときのもので、その他の歌詞はそのときの音頭とりがその場で適当に選んで歌う。ヨリコは小山手で盛んに踊られていたので小山手踊りともいわれた。 イリハは、女性は両手に扇を持ち、男性は胸に太鼓を吊り下げ、紅白の長い房の付いたバチを美しく振り太鼓を打ちつつ踊る優雅な踊りである。加賀越前から舟が来て黄金や宝を積んでくるという内容で始まり、江戸へ行く道中の道順などを織り交ぜて唄う。昔は村の他の地区でもイリハが踊られていたが今では西川のものだけが残っている。 カケイリは大踊りの最後に踊られるもので、ヨリコと同じ形態の踊りであるが切子灯籠を吊り下げた灯籠持ちが加わる。カケイリではセメのあと最後に横列の隊形を解いて円形となる。輪の中心で音頭とりが即興の歌を歌い、ゆったりと踊って最後を締めくくる。これを「ダイモチを引く」という。 西川の大踊りには他に忍び踊り・鎌倉踊り・お花踊りもある。もとはヨリコ形式の踊りのみを大踊りといい、これらの踊りはイリハとともに小踊りと呼ばれ、また継承に熱心であった永井を中心によく踊られたので永井踊りともいった。今では殆ど踊られなくなったが胸に太鼓を吊り下げた男性を中心に踊るもののようで、太鼓踊り系統の曲が盆踊りに取り入れられたものであろうと考えられ、これら小踊りは十津川の大踊りにおいては他の大踊りとは別の芸態である。西川の大踊りで現行で「イリハ」と呼んでいる踊りは実際には2曲の踊りが入っている。最初に独立した「いりは」を踊り、続けて別曲の「おえど」踊りを加えて踊っている。「いりは(入波)」は篠原踊(五條市大塔町)のほか、国栖(くず・吉野町)や東川(うのがわ・川上村)の太鼓踊りでも最初の場入りに用いられる曲である。現行の西川の「イリハ」も、いりはから他の踊りに続く様式であることから本来は小踊りの最初の踊りであったと考えられる。 西川で小踊りといわれたイリハ系の踊りは、以前は十津川村の各地でも本踊りといわれて踊られていた。1954年(昭和29年)に出版された『十津川郷』(西田正俊著)には三村区内(小原、武蔵などの地区)の「本踊りの歌」として「いりは」など7つの歌があげられているが、積極的な伝承がなかったために消滅し、小原、武蔵などに今の大踊りだけがようやく残った。 1
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