The tradition & historical record
1 min read · 2 sourcesおかえり祭り(おかえりまつり)は、石川県白山市美川地区市街地にて、毎年5月の第3土曜日・日曜日に行われる、藤塚神社の春季例祭である。 1
概要
初日(土曜日)は神幸祭(しんこうさい)、2日目(日曜日)が還幸祭(かんこうさい)といわれ、11の町と船職組(昔の船大工)、家方(やかた)組(建築職組)から計13台の3輪の台車(だいぐるま)と呼ばれる山車が巡行する。また祭りの特長の一つともいえる、八角型の神輿がラッパ衆のにぎやかなラッパに先導され美川の町を担ぎ出す。また金曜日には宵宮(よんめ・この地方の方言)が行われる。 藤塚神社は方位、鬼門除けの神を祀っており、古くは藤塚村と呼ばれた当地の表鬼門の場所が高浜御旅所(高浜宮殿)〔仮宮〕、裏鬼門が藤塚神社本社であった。1日目の神幸祭には、裏鬼門の藤塚神社から表鬼門の高浜御旅所(高浜宮殿)へ、2日目の還幸祭には逆に表鬼門から裏鬼門へ、神輿とそれに渡御して13基の台車が曳き出される。還幸祭では、高浜御旅所(高浜宮殿)より本社である藤塚神社へ神輿と台車が戻る際、10町の内1町の通り「おかえ(お還)り筋」を通って戻ることがおかえり祭りといわれる由来となっている。 祭礼の起源は、古くは藤塚村、のちに本吉(本吉湊)といわれた北前船で栄えた街並みが現在のように整った元禄年間(1688年-1704年)以降の250年から300年程前といわれているが、これまで美川(本吉)では町全体が焼失するほどの2回の大火を含む火災が5回あり、起源を示す史料が残っていない。なお祭礼の史料としては、1811年(文化8年)4月に本吉奉行所が出した「御祭礼札に付いての注意」が記録として残っており、そのころには既に行われていたといえる。 御旅所である高浜御旅所(高浜宮殿)付近の道路には、露店(的屋)が数多く並ぶ。 祭礼は、1966年(昭和41年)まで5月29日、30日、それ以降は5月22日、23日に行なわれていたが、現在は5月第3土曜・日曜日に行われている。 なお、2001年(平成13年)12月25日には、石川県の無形民俗文化財に指定されている。 1
おかえり筋(お還り筋)
2日目の還幸祭で高浜御旅所(高浜宮殿)より10町(実際は11町だが、新町は東西の2町で1町)の内1町の通りを通って本社である藤塚神社へ神輿と台車が戻るが、その通りをおかえり筋という。各町の通りにおかえり筋が巡ってくるのは10年に一度のことであり、担当町内の家々は、祭礼に向け家を修理し、畳を替え、調度品を揃え、軒先に御神燈と書かれた丸提灯を立てるなどの準備をする。 還幸祭当日は夜の7時からの神事「新遷の儀」の後お発ちとなるが、各家々では数多くの料理やお酒を用意し、親戚や知人・友人、取引先など数多くの人を招き、深夜まで盛大にもてなす。また、お帰りの台車が通ると、引手の男衆、関係者なども家に上げて料理や酒を盛大に振舞うのだが、これが何軒も続くこととなる。以前は縁もゆかりもない見物客にまで家に上げて豪勢に振舞ったそうである。 1
獅子舞
おかえり獅子と呼ばれる、加賀獅子の系統を汲む大きな胴体を持つ獅子である。 1
ラッパ衆と神輿
ラッパ衆と旗手、神輿の担ぎ手は美川校下青年団が受け持つ。青年団は、黒紋付、袴に白たすきを掛け、白はちまきを巻き、足元は白足袋姿の凛々しい姿で、ラッパ衆は脇に扇子を差し、肩にはビューグル(バルブを持たないラッパ)を掛けている。 ラッパ衆と旗手は進行方向とは逆を向き(後ろ向き)、ラッパ衆は横並びに肩を組み隊列を組み、ラッパを吹き音頭を取りながら、旗手は飛び跳ねながら両手で団旗を大きく振り、神輿隊を鼓舞しながら後ろ向きに進む。神輿隊は神輿を担ぎあとから続く。ラッパ隊は1930年(昭和5年)ころから始まった。 当初、地元の若衆や漁師衆が担当していた神輿渡御を漁期による人材不足から在郷軍人会美川分会が担うようになった。昭和5年、金沢の第7連隊のラッパ長が美川町出身の伍長であったため、彼に指導を請い、当時の流行軍歌「中丸行進曲」などが演奏された。 終戦後、1946年(昭和21年)、GHQ司令部からラッパ吹奏の中止令が出された。これに対し、美川新町・松雲寺の住職兄弟らが金沢のGHQを何度も訪ね、時にはラッパ吹奏も実演もして「突撃ラッパではない」旨を再三説明した。これにより、GHQのラッパ中止令も撤回され、1948年(昭和23年)、青年団よる吹奏という形で復活した。